それゆけ!魂SUPER POTENTIALと仲間たち
TOP  Member  History  Machine  Transporter  Memory  Photograph  Now  Link  Blog

Member  History   Machine   Transporter   Memory   Photograph  Now   Link   Blog
それゆけ!魂SUPER POTENTIALと仲間たち』~魂SUPER POTENTIAL のホームページへようこそ!
このページは創設者が語る魂S.P(魂SUPER POTENTIAL)の歴史のコーナーです!
なぜ、『魂S.P』なのか?
いったい『魂』とはなんなんだ?
そんな疑問に創設者が年号とともにつづる 魂 SUPER POTENTIAL の歴史!
本来ならば、まっとうな青春をおくるであろう青年たちをも巻き込んでしまった魂S.Pだが、
すべては一人のアホな少年 から始まったのである・・・
この物語はリアルヒストリーなので完全ノンフィクションです(わはは
さあ、それではどうぞ!!

1982年

北海道の岩内町という小さな町で高校生だった頃、原付バイクに乗り始める。以前、芦別市という北海道のど真ん中で小学生だった頃の同級生長船君がモトクロスを始めていて、ものすごい走りをするその姿に長船魂と命名した。この『魂』という一文字が魂SPの名前の根源である。その魂に少しでもあやかろうということでヘルメットなどに『おさふね魂』などと文字を入れて走っていた。あやかれたかどうかは不明のままである。

『おさふね魂』の『魂』が魂S.Pの名の根源なのですよ。

1983年

当時はやっていた雑誌モトチャンプや悪友"Kenji"に影響されバイクのエンジンをばらす事を覚える。また、雑誌記事等を参考にエンジンチューニング(?)にはまる。このころから自分がいじったエンジンのシリンダヘッドなどに自分が手を入れた証としてとして『魂S.P』とリューターで掘っていた。当時、この『魂S.P』のS.Pの意味は『SPECIAL PARTS』の意味で、本来は『TUNING POWER! 魂S.P FACTORY SPECIAL』という長ったらしい名前を語っていたが、言葉として発声するのが面倒になったのか、いつしか『魂S.P』と省略形で言うようになった。1983年から魂S.Pと名乗るようになったのでこの年を魂S.Pの起源としている。別にロードレースをこの1983年からやっていたというわけではない。当時流行っていたのが『バリバリ伝説』という漫画で、主人公が高校生だったのもあってか自分たちの姿と重ねあい、いつしかオートバイでレースをしてみたいと思うようになったのである。また、ちょうどこのころ、『汚れた英雄』というオートバイレーサーを主人公にした映画が上映されていて、あのサウンドトラックのライディングハイという曲を何度も繰り返して聞いていた記憶がある。おそらくこの頃が前代未聞のバイクブームの始まりだったのではないかと思う。ある日自動車教習所で2輪の安全運転講習会があるというので行かないかと悪友"Kenji"から誘いがあった。そんなのいくわけね~だろ!と断ったが、講習会終了後に『汚れた英雄』のビデオを上映するというので、それなら行くとホイホイとついていったのだが、そこに来ていたサイクルショップ乳井というバイク屋さん主体のモトクロスクラブの方が、うちのクラブに入ればモトクロッサーに乗せてあげると言われ、これまた悪友"Kenji"とともにホイホイと入会してしまったのである。しかし、このモトクロスクラブに入ったことでそのバイク屋さんに行くことも増え、ライディング技術はもちろんのことメカのことなど非常に勉強になったのであった。MFJ(日本モーターサイクル協会)を知ったのも、ちょうどこのころであり、はじめて競技ライセンスという物を手にしたのもこのころである。(もちろんモトクロスの)そしてそのモトクロスクラブの先輩から買ったRZ50が高校卒業までの自分の愛車となったのである。

YAMAHA RZ50 が最初の愛車。通販で購入したイシイのチャンバー付。

手を入れたシリンダヘッドに魂S.Pの文字。

楽しかった岩内モトクロスクラブ。これは倶知安でのエンデューロの時。

1984年

海岸のモトクロスコース(物凄いサンドコースでスピードが落ちるとまっすぐ走らない)で練習を積み重ねながら、魂S.Pチューン(笑)のRZ50でニセコの山々(ニセコとは地元の山々を表す地名~スキー場で有名)を走り回り、漫画『バリバリ伝説』のグン(主人公)を気取っていた(ちなみにグンが乗っていたのはホンダCB750F)。これまた、『バリ伝』に登場したチューニングカブに影響されてサイクルショップ乳井のたーぼさん(本当にいい人だった)にお願いして譲ってもらったスズキの2サイクルバーディ(ご存じとは思うがカブは4サイクル)をチューニングしたりと、順調に魂S.Pの活動?(なんの活動じゃ)を続けていった。ちなみにこのチューニングバーディは北海道特有の直線道路で全開走行中、ピストンに穴があいてお釈迦になり、何キロも歩いて電話ボックスまで行き、悪友"Kenji"に助けを求めたのであった。そんなこんなで月日がたち、世間じゃスーパークロスがはやり始めたのもこの時期で、モトクロスもこのやわな体じゃ自殺行為だと気づき、やっぱり俺にはロードレースだと意気込んでいたのであった。(ロードレースもそんな甘いもんじゃないのにねぇ~)しか~し!ここで問題があったのだ。な、なんとその当時、北海道には2輪が走れるサーキットというものがなかったのである。その時、HSP(北海道スピードパーク)は造成中だったと記憶している。そこで、悪友"Kenji"と俺は授業中に、いつしか乗るであろう魂S.Pの文字を入れたマシンとそれを積むためのトランスポーターのイラストをノートに描きながら夢を膨らませ、北海道脱出計画をくわだてていたのだった。そして、自分は群馬県の自動車整備専門学校へと進み、悪友"Kenji"は埼玉県の会社へと就職することとなったのであった(当時、群馬県は茨城県筑波サーキットのすぐ近くと思い込んでいた)。

"Kenji"の愛車もまたRZ50。
当時HSP北海道スピードパークは造成中でした。

1985年

高校を卒業して群馬県に住むようになったが、筑波サーキットが思ったより遠いことに自分の計画性の乏しさを感じていた。が、初めて自動2輪の免許を取得(実は北海道時代、恥ずかしいことに試験場にて一発で自動2輪免許取得を目指したが、ことごとく落ちまくっていた)。まずは、ハイパワーなエンジンに慣れようということでRZ350Rを購入(というより、2サイクルで一番早いバイクが欲しかった。その後ホンダからNS400Rが、スズキからRG400γが発売されガックリ)。初めて乗った2サイクル自動二輪ではあったが、モトクロッサーの加速に慣れていたせいか加速が恐いというより加速時80km/mくらいでたまに発生するフレームのヨーイングで何度も死ぬ目を見ていた。そして早朝の赤城山(群馬県の山の名前)を走りまくるのがなぜか日課になり、ここからしばらくはサーキットで走るなんてことはどっかに飛んで行ってしまった。一方、埼玉県の川口市の会社に就職した悪友"Kenji"だが、彼も秩父方面の正丸峠というところを走っていて同じ様な生活を過ごしていた。まぁ、自分と違って偉いところは親の金に頼らず生活すべてを自分でまかなっていたところだろう。たまに赤城山に遠征してきては一緒に走り、どっちが速いなどとたわけたことを言っていたのもこのころである。バイクには魂S.Pの文字を入れ、今考えればただの峠小僧と化していったのだった。また、同じ専門学校に通っていて後に魂S.Pにいなくてはならない存在となる石川君(通称シャカ君、実家は栃木県)と知り合ったのもこの時期である。

群馬県の専門学校生時代。YAMAHA RZ350Rが愛車。

良く夜明けとともに赤城山北面へ走りに行ってました。画像は赤城南面。

1986年

専門学校生2年目にはさらに馬鹿に磨きがかかり、赤城山の2スト最速を自称していたが、実際のところ誰かが認めたわけではないので、みなさんは俺の独りよがりと思っていただきたい。その年、卒業する先輩が筑波で走っていたホンダCBX400FのNP(ニュープロダクション)仕様(懐かしい~)を5万円で売りに出していて4万円に値切って買い、サーキットデビューをするぞと意気込んだが、そんなお金もなく結局その辺を乗って(ホントはだめです)バラバラにしてパーツで売ってしまった。一方、RZ350Rの方は何度かエンジンの焼きつきを繰り返しながらも、かわいそうに専門学校卒業までこき使われていたのであった。また、シャカ君の知り合いでもあった赤城山を完全な『バリ伝』のグンレプリカで走っていた○○さんが筑波でレースデビューするというので、お願いして自作の魂S.Pステッカーを貼っていただいた。これが魂S.Pの文字が初めてサーキットを走った瞬間に間違いはないといえよう(笑)。感謝。こんな傍から見たらアホな事ばかりしていた魂S.Pの面々(俺だけか・・・)だったが、時が過ぎるのは早いもので、あっという間に卒業の時期になってしまった。埼玉県に住んでいた悪友"Kenji"は近くのオートショップミズシマというバイク屋でRS125を購入。晴れてサーキットデビューをかざったのだった。本当は当時注目の的だったFⅢクラスで走りたかったらしいが、FⅢは金がかかり先を見越してレースを続けたいならレーサーに乗れとミズシマの社長に言われ、しぶしぶRS125を購入したらしい(当時オートショップミズシマはレーサー125クラスでは関東では有名だった)。そして俺は吸い込まれるように"Kenji"の勤める会社(パンの天板や食型のメーカー)に就職することになったのであった。これでは何のために自動車整備専門学校にいったかわからないようだが、当時の自動車メカニックの初任給は低く、これではレースなどできないと判断したのが表の理由だが、実際、自分のような馬鹿が人様の大切な車を扱うディーラーのメカニックなどできるはずもないというのが裏(本当)の理由である。

Oi-chan、シャカ君、”Kenji"。今見るとみな名車(笑 CBX、400Γ、RZ350R、NS400.

埼玉の正丸峠での”Kenji"の走り。

赤城山北面で焼きついたRZ350R(涙;

1987年

埼玉県で晴れて社会人になった自分だったが金があるわけでもなく、働いて金を稼ぐという大変さと素晴らしさを実感しつつもサーキットを走ることへの夢は日増しに募るのであった。そんなとき、やはりオートショップミズシマに87年型RS125がほぼ新車の状態で、買い手を探しているとのことで、これは神様が自分に買いなさいと言っているものだと思い、ローンを組んでしまった。このオートショップミズシマに出入りするようになったところからが普通の人とは違う人生の始まりだったのである。初めてサーキットライセンスを取得したのは富士スピードウェイだったが、広すぎてどこを走っていいのか全然わからなかった。当時はレーサー125からMCFAJのモンスタークラス?(とにかく速いし抜いていく時のスピード差が恐ろしかった)まで混走だったので、サーキットって安全どころかやっぱり危ないところだなというのが走り始めたときの率直な感想である。そういえば、富士スピードウェイのライセンス講習のとき、講師の先生が『先に行っておきますが、お金の無い人は危ないですからレースはやらないでください。まず速くなることは出来ません。』と講習の最後にさらっと言っていた。そのとき『なにコイツ!』と思ったが、数年後まったくそのとおりだと思い返したことがある。怪我をして惨めなことになるのは自分なのだからよく考えろよと言ってくれてたんだなと。しかし、突き進むことしか頭に無い自分には油紙に水を注ぐようなものだったのである。そして専門学校時代によく群馬県の赤城山へいっしょに走りに行っていた栃木県在住のシャカ君もまたRS125を手にいれ一緒にサーキットへと通うようになったのである。もちろんお金に余裕の無い2人は栃木→埼玉→東京→神奈川→静岡を一般道を通って週末に富士スピードウェイへと通ったのだった。マシンのこともサーキットの走り方も良く分かっていなかったが、当時はサーキットに行って走れること自体が嬉しくて楽しくてしょうがなかったように記憶している。

マシンを積み込むシャカ君。

初めて手に入れた純レーサー、1987年式HONDA RS125R。

コレはたぶんFISCO(富士)のヘアピン。
へたくそ(笑 バイク寝てないし・・・

FISCOを走るスピード感あるシャカ君。

1988年

悪友"Kenji"はHSP(北海道スピードパーク)がオープンした北海道に帰ってしまった。魂S.P北海道としてがんばるということだった(帰省後、彼はNSR250でSPクラスに参戦、その後念願のF-Ⅲクラスにスイッチ)。RS125のキャブのセッティングもいじればいじるほどわからなくなるので、新車出荷時に戻した状態で晴れの日も雨の日もとんでもない濃いキャブセッティングのまま走り続けていた。当時のサーキットに来ている連中は皆、レースのためだけに生きているような奴ばかりで(そう見えた)常にピリピリとした空気が漂っていた。それゆえに、話しかけるのも怖いくらいだったのを覚えている。出来ることなら、頭を下げてオートショップミズシマのチーム員にしてもらえれば、すべての面において上達しただろうに魂S.Pという文字をバイクから消すことはできなかった。今考えれば馬鹿の一つ覚えのようにとにかくサーキットを一生懸命走ろう、それだけだった。そういえばミズシマの社長にこんなことを言われたことがある。「お前恥ずかしいからレースに出るな。もっとタイムを上げてからエントリーしろよ。」と。ごもっともである。実は悪友"Kenji"も同じ様な事を言われたと告白していたことがあったが、ただ、当時のノービスクラス(現国内)のエントリー台数といったら、半端な数じゃなかったから、とんでもなく速い奴を除いて予選通過することなんか夢のまた夢だったのである(自分たちのレベルでは・・・トホホ)。

1988年、FISCOにて。

1989年

走っても走ってもタイムが上がらない日々が続き、とうとう事件(という程のことでもないが・・・)が起きてしまったのはこの年だった。ある日、シャカ君とミズシマの走行会に筑波サーキットへ行った時のことである。周りはほとんどチームミズシマ関係(だったと思う)の方々ばっかりで、その速さに驚いていたのだが、勇気を振り絞って隣にいたライダーにギヤ比のことやセッティングのことなどを質問させていただき、快くお教えを戴いたのだった。本当に参加してよかったと思っていた次の走行だった。筑波の裏のストレートで自分の前を走っていたライダーがいたのだったが、この人についていけばタイムが上がる筈と、今まで自分では考えられないようなスピードで最終コーナーに飛び込んでいったのである。当時、コーナー手前でフロントブレーキをちょん掛けしてタイミングをつかみ、スパァ~っと最終コーナーに入って行ったと記憶しているが、その最終コーナーの中ほどに差し掛かり「なんだ、いけるじゃん・・。」と思ったそのときだった。前のマシンに急に近づいたと思ったら、自分のRS125のリアタイヤがスッと流れてそのままアスファルトの上に叩きつけられ、RS125とともにコースの外へと滑って行き、なんだかわからないうちに停止していたのだった。目を開けてみるとヘルメットの中に土がびっしり詰まり、しまいにはレーシングスーツの中まで土でいっぱいだった。大きなけがもなく済んだのだったが、自分のRS125は無残な姿に変貌していた。その帰り道、シャカ君の運転するトランスポーターの中で、いろんなことを考えていた。俺はなんでこんなところにいるのだろうか。サーキットを走りたいってわざわざ北海道から出てきたものの、なんの成長もなく、しまいには悪友"Kenji"も北海道に帰ってしまった。そんなことを思いながら自分の不甲斐無さと虚しさを噛みしめていたのだった。帰ってからしばらくは今後どうしようかと考えたが、とりあえずミズシマに行き、直せるだけのパーツを注文した。ミズシマの社長は「お前、最終でコケてたなぁ」と笑っていたが、俺の心の傷は相当深かった(笑)。そして、すぐに結論が出た。『よ~し!レースやぁ~めた!』なんと簡単な答えだろうか。こんな根性のない若者たちがいっぱいの日本だったら、今、とんでもない国になっていたことだろう。RS125は直して売ってしまおう。あとは気楽で自由な若者の生活をしよう。しかし、神様はそんな甘い考えの俺を許してはくれなかったのだ。ある日、ミズシマになかなか来ないパーツの催促をしに行った時のことである(たしか年末)。社長はずらーっと並んだ新車のRS125を前に、普通の顔をしてこんなことを俺に言ったのだ。『お~、お前の頼んだマシン来てるぞ。90モデルはキャストホイールだぞ。かっこいいだろ。好きなのもっていけ・・・。』ど、どーゆーことじゃぁ~!俺はマシンなんか頼んでねぇ~っつ~の!!俺が頼んだのはパーツだっつ~の!!と言い訳したものの、『いいや、お前は頼んだ。ここでレースをやめるつもりか』などと言われ、なぜかカウンター越しの社長を前にローン用紙に記入している俺がいたのだった。今考えればそれがミズシマ社長の営業だったのかもしれないが、そのおかげで今の自分がいると思うとミズシマの社長には本当に感謝している。しかしだ、それからの俺は今までにも増して壮絶な人生(すみません言いすぎです)を送ることになったのである。

FISCOのピットの内側。当時ピットロードとはつながっていなかった。

筑波の最終コーナーでこけて帰ってきた日の夕方。自宅横で。

HSPを走っていた”Kenji"のNSR250R-RK。

オートショップミズシマでのひとコマ(笑

1990年

やっぱりやることになったレース。しかしまたさらに神様は俺に試練を与えてくれた。しばらく連絡を取っていなったシャカ君が行方不明になっていたのだった。どうも中森明菜が自殺未遂を起こした直後から姿を消したらしい。おぉ~、俺はどうやってレースを続ければいいのだ。その時、なんと魂S.Pのメンバーは関東で俺一人だったのである(そりゃそーだ)。北海道では悪友"Kenji"がNSR250RK(FⅢ)でレースを戦っているし、くそ~、もう、この際どっかのチームに入れてもらおうかと真剣に悩んだが、たまたま去年知り合ったホズちん(女性)がピットクルーをしてくれるというので、不安もあったがお願いすることとなった。しかし、当時もまだバイクブームどころかバイクレースブームだったのか、予選出走台数は減ることもなく、当時走っていた方なら皆知っているとおり、練習走行さえも予約が取れない状況で、筑波サーキットのパドックで[走行券売ってください]と段ボールに書いて売ってくれる人を待っていたなんてことも普通だった。そんなある日、東北方面のサーキットは走れるらしいという噂を聞き、できたばかりのエビスサーキットなら走行枠があるかもということで、しばらくはひっそりと東北方面で地道に練習にいそしもうということになった。ところが、当時のエビスサーキットも例にもれず満員御礼で、レース当日のパドックからはトランスポーターが溢れ、最終コーナーの方の駐車場(後で増設されたずぅ~っと坂を下った下の方)までいっぱいになる始末で、そんなところにトランスポーターを駐車してしまったら、ピットがあるメインエリアまで坂を登っていくのにとんでもない労力を費やさなければならなかった。しかし、自宅から250km以上離れているエビスサーキットに週末通うようになってからはサーキットでの知り合いも増え、ほとんど毎週のように走りに行っていたように思える。今でも忘れられないのは、木村君(小柄な人でピットクルーのホズちんは “ミニラ”君と呼んでいた)というRS125に乗っていた千葉県から来ていたライダーで、エビスでのタイムを出す方法などをエビス初心者の俺に熱心に教えてくれたのだった。それでもレースになると予選出走台数は100台以上はあった筈で、予選を通過するのは至難の業であった。いつもピットクルーのホズちんと、予選落ちが当たり前のように決勝前日にサーキットを後にしていた。

1990年FISCOにて(たぶんグランドスタンド裏の道)
後ろに富士山が見えます。

1990年型HONDA RS125R。このモデルからキャストホイールになった。

下見に来た時の福島県エビスサーキットにて。
コレはGP250の決勝前と思います。

1990年、通うようになったエビスサーキットにて。

1991年

この年の年末、ミズシマの社長には黙って某ハ○クプロという有名なレーシングショップにクランクのオーバーホールを出したことがあった。そこには雑誌でよく見るショップの代表の方が座っておられて、なぜか感動したのを今でも覚えている。エンジンやキャブレターのことなどいろいろ説明してくれてたようだったが一種の興奮状態にあった俺にはちんぷんかんぷんだった。ただ、サーキットで走っているとき俺を直線で抜き去っていくマシンのサイレンサーに、そこのショップのステッカーが貼ってあるのをいつも横目で見ていた。その約1ヶ月後オーバーホールをしたクランクを取りに行った帰りの俺のトランスポーターにはハ○クチャンバーとアブガスヘッド、そしてPWKのキャブが鎮座していた。これで俺のマシンも速くなると思い込んだ勘違い野郎の俺だったが、速くなるどころかあまりにも性格の違うチャンバーに戸惑い、タイムは落ちていく一方だった。その時初めてセッティングとは何かというものを考え始めたのだった(おそいっちゅーに!)。チャンバーをノーマルに戻し(もったいない・・・)キャブ等のセッティングを勉強していった俺だったが、あっという間にタイムが縮まり、やっぱりノーマルのRS125でも速く走れるんだということを認識したのだった(あたりまえだっつ~の!)。その頃、クラブ1.2FK大平組の方々や、レーシング南平台千尋隊の方々と知り合いになり、いろんな情報をいただき、大きく成長した年でもあった。また、この年には仕事も変わりその会社の先輩であった戸口さんに騙され桶川カートランドで車両何でもありの8時間耐久レース(たしかハニービー耐久だったような・・・)にモトクロッサーで出場させられ、その時戸口さんが連れてきた鍋島(通称ナベ)がいい走りをするので、どこかで走ってるの?と聞いたら筑波で走ってるけどタイムが上がらないとのこと。だったら一緒に走らないかと誘い、しばらくぶりに魂S.Pのメンバーが一人増えたのだった。当時、モトクロッサーでしかもモトクロス用のタイヤでカートコースとはいえロードコースをパワースライドしながら立ち上がっていく姿は、現在のモタードをやらせたらあんた一番だよ、と言いたいくらいであった。このころから、魂S.Pの名は『魂SUPER POTENTIAL FACTORY』の略となり、のちにFACTORYが消え、魂SUPER POTENTIALとなったのである。そして、その年の年末、92RS125をやはりミズシマの社長から買うことになったのであった。一方、魂S.P北海道の悪友"Kenji"はこの年に国内A級へと昇格した(ハズ)のである。

ガレージはもちろんアパートの部屋。

タイムが少しずつ縮まってきた1991年。

1992年

記憶が間違っていなければこのオフシーズンに行方不明だったシャカ君の居場所が判明し、(なんと埼玉県の上尾市にいた)再会を果たすことができたのだった。やっと再会したシャカ君に俺と一緒にレース活動をすることの約束をさせた上、念書に拇印まで押させたのであった(俺ってとんでもない奴だ・・・)。そのシャカ君は生活厳しい俺に毎日のように吉野家の牛丼を買ってきてくれたりもした(う~、涙涙・・・)。今年より、去年まで自分が乗っていたRS125を仕事の先輩であるタカクボさんが乗ることになり合流。一方、魂S.Pのチーム員になったナベだったが、中古マシン(物凄いチューニングRS125だったらしい)の調子が悪く、なかなかタイムが上がらずにいた。そのうちそのマシンが再起不能になり、また中古の古いRS125を買うというので、新しいマシンを買いなさいと言ったが聞かず、じゃあ俺のマシンを一回乗ってみなと新車の92RS125を貸してあげたのだった。そのナベ、なんと乗った瞬間からタイムがポ~ンと出て、やはり新車だということになり、1年間トラックの長距離で金を稼ぎ93RS125を買うこととなったのであった(目指す気持ちがあれば1年なんて短いもんだ)。また、この年に某マフラーメーカーから自分と同じ会社に転職してきた支倉さんを無理やり勧誘し、魂S.Pに入れたのだった。その支倉さん、RGγのSPマシンに乗っていたのだが、見た目は速くは見えないものの、ストップウォッチを見るとなぜか速いという特技(じゃねーだろ!)を持っていた。さらにこの年、支倉さんと組んで支倉さんのRGγでエビス3Hに出場したのだが、なにげな走りで一時はトップを快走するなどした。(支倉さん素晴らしい)。

1992年エビス3時間耐久レースにて。

1992年エビス選手権、支倉さんはSP仕様のガンマでN-GP250に挑戦。

1992年エビスサーキットのピット前にて帰ってきたシャカ君!

中央はタカクボさん。
右のマシンがもともとエルフガス仕様だったナベの調子悪いマシン。

1992年エビス選手権N-GP125クラス決勝前。

1992年エビス選手権N-GP125クラス決勝。

1992年エビス選手権、
SP仕様のガンマでN-GP250スタート前チェックを待つ。

1993年

支倉さんはGP250クラスにスイッチし、ナベはシーズン当初から順調だったが、俺はなかなかタイムが上がらず苦戦していた。しかし、チーム一丸となって助け合いながら過ごしていたような記憶がある。当時、会社の先輩、戸口さんの紹介で埼玉県川口市にあるペガサスオートという塗装会社さんにカウルなどのカラーリングなどで大変お世話になり、本当に恵まれた環境であった。そいえば、この年にバトルファクトリー製のバトルシフターなるものを装着したのだが、ラジコン用のバッテリーが必要でミズシマの社長がこれを使えとバッテリーを貸してくれたのだった。コネクターを接続する前にミズシマの社長に借りたバッテリーの赤と黒の線の色がシフター側とはあべこべになっていたのに気づいたが、ミズシマの社長から渡されたのだから間違いはないとカポッと接続。その瞬間シフターのユニットから『ぽや~っ』と煙が出て、その後そのシフターは作動することはなかった。このときほどミズシマの社長を恨めしく思ったことはないが、自分の確認ミスなので仕方のないことであった(ものすごい溜息・・・)そんなこんなでシーズンも終盤に差し掛かり、来シーズンのことを考え始めていたころ、RACING南平台千尋隊の菅澤さんが92TZ250を売るという情報を察知し、GP125クラスでなかなか結果も残せずにいたので、いっそのこと国内B級で走れる一番速いGP250クラスのマシンに乗ってレースを締めくくろうなんて思いが駆け巡り、シーズンオフに購入してしまったのだった。この年にサイクルショップキャビンの米山(通称ヨネちゃん)と支倉さんの友達であった尾島君が魂S.Pに入ってきた(というより無理やり入れた)

1993年SUZUKI RG250Γ 耐久レース用SP仕様マシンと魂S.Pチーム員

1993年エビス選手権SPクラス決勝グリッドにて。
ライダーヨネちゃんとNSR250.

1993年支倉さんはGP250にスイッチ。

1993年創設者GP125クラス最後の年。
マシンはそこそこ速いのにタイムが出ない日々。
手前のマシンがナベが約1年間長距離トラックに乗って稼いで手にした新車のRS125。

1993年エビス選手権N-GP250決勝グリッド。支倉さんTZ

1993年那須エクスプローラーサーキット。
SP125参戦のIto-san(後方)とS50戸口さん。

1994年

TZ250は確かに速かったが非常に乗りやすいマシンだった。しかし、125の時の根性乗り(力任せにうりゃぁ~っとコーナーに入っていく乗り方のこと)に慣れていた俺は誰よりもコーナー突っ込みには自信があったが、全然タイムは上がらなかった。それを俺の後方で見ていた支倉さんがこいつアホちゃうかと思ったかどうかは定かではないが、レーサー250初心者の俺に『支倉さん乗り』を伝授してくれたのだった。このおかげでタイムは縮まりはじめ、250イケるかも、なんて甘い考えが出てきたのだが、コーナーでインに上半身を極端に落とし込む通称小僧乗りだけは直らなかった。また、125時代にコケまくってボロボロだったレーシングスーツ(皮ツナギ)を新調しようと以前から使っていたヨネゾー(皮ツナギのメーカー)に行った時のことである。ヨネゾーの横田社長に「250に乗るなら脊髄パット(背中に背負う骨みたいなヤツ)を絶対背負いなさい」と言われたのだが、邪魔だから嫌だと答えたら、だったらお前にはツナギは作らんと言われ、押し問答のあげく(笑)レーシングスーツ内にゴリゴリの脊髄パットを埋め込まれたのだった(そんなツナギは見たことなかった)。しかし、転倒して大怪我をしたライダーなんかも見てきた横田社長のあの真剣な説得は、売るだけの商売人ではなく、それだけライダーの体や命のことを真面目に考えてくれていたんだなと実感したのである。TZ250に乗るようになってからは考えて乗るようになり、転倒する回数も減り、コケまくっているのはナベだけとなった。しかし、ナベのライディングには磨きがかかりはじめ、速さがともなってきた年でもあった。

1994年TZ250にも慣れてきた頃。

片もちスイングアームのNSR250で参戦したエビス3時間耐久。

1994年おそらく新春合宿中時(笑)の魂S.Pチーム員。

1994年 N-GP250クラスへスイッチした創設者。
ピットクルーはシャカ君。

新調したヨネゾー製レーシングスーツ。

1995年

支倉さんはナカノレーシングプロジェクトというチームに移籍することになり、少しさみしくはなったが、同じレース時にはいつもパドックでは一緒だった。この時期の魂S.Pはとても活気があり、ピットクルーもシャカ君、あおちゃん(95年加入)、 にしはら君(95年後半加入)と忙しい日々(?)を過ごし、運動部のように年2回(5月と正月)サーキットにこもる合宿(半分遊び~昼間は走り、夜はカラオケと温泉)までこなしていたのだった(笑)。この頃の俺の口癖は『小さなミスより大きなアクション』で、とにかく目立つことを意味していた。マシンは常にきれいにピカピカで、レーシングスーツは派手に行こう!仮に他のライダーとバトルをしていたとして、他人から見た場合、やっぱり派手な奴に目が行っちゃうもんね。そうすることでいろんな人に見てもらい、気にしてもらうことできっと輪が広がるはずというものだった。そのおかげか何かわからないが、いろんな人に声をかけてもらい、勉強させていただいた年であった。ダンロップ優勢だった当時、特にブリヂストンのタイヤサービスの方(BSモータースポーツの方とおそらく郡山のBSショップの方)には本当にいろんな意味で助けて頂き、また勉強させていただいたのである。感謝。この年で俺はマシンを降りようと決意しその年の最終戦で専属ピットクルーのシャカ君とレース前に記念撮影したのだが、なぜかシーズンオフになると来シーズンに向けて着々と準備をする俺がいたのだった(笑)。そして、この年一人の元NA(国内A級)ライダーと知り合うこととなったのだが、MFJのライセンス区分編成時国内ライセンスに降格して走っているらしいとのことで(当時、国内AライダーはMFJのライセンス区分編成時、国内に降格と国際に昇格のどちらかを選択できたと記憶している)、近所だったのもあってか、さっそく魂S.Pに誘ってみることにしたのだった。サッカー選手のゴン中山にほんの少しだけ似ている彼の名もまた中山だった。この中山さん、自分で自動車整備工場を営んでおり、サーキット以外に行くところのない俺たちは、一人寂しい中山さんを励ましに行く名目でよく工場で暇つぶしをしていたものである。(冗談ですよ中山さん・・・笑)こうして魂S.Pの魔の手は着々と広がっていったのである。

1995年決勝前のピットにて。アプリリアタイプのシートカウルが流行りました

1995年エビス選手権最終戦決勝前、信頼のピットクルーシャカ君(右)と。

1995年エビスサーキット東コースピット内にて。ナベちゃん。

1995年エビス選手権N-GP250クラス決勝グリッド。

1995年にしはら君はGP250クラス担当。

1995年エビス選手権N-GP250クラス決勝。

1995年ナカノレーシングに移籍した支倉さん(左)と。

1996年

この年のエビスの初戦、久しぶりにミズシマの社長とサーキットで会った。少し浅黒く痩せていたが、いつもの毒舌は快調そのものだった。実はオートショップミズシマはホンダ系のショップだったので、ヤマハのマシンに乗るようになってからはほとんど行くことがなくなっていたのだ。ミズシマ社長のありがたい言葉(ほとんど文句)をいただいて気合いを入れたレースだった。その後しばらくしてからだが(98年)病気により亡くなられたと聞き、俺の人生の一部を構築するきっかけとなった人だけに、それから少しの間、とても暗い日々を過ごした記憶がある。水島社長の御冥福をお祈りしたい・・・。一方、ナベと中山さんはGP125クラスでは常にトップグループを走行し、魂S.Pがとても光り輝いていた頃である。また、ヨネちゃんや尾島君も、ともにGP250クラスにレースに参戦し、気を吐いていた。この年、全員が結果はどうであれ有意義なシーズンを過ごし、翌年、自分とナベ、そして中山さんが国際ライセンスへと昇格したのである。シーズンオフには、97シーズンからレースガスやアビエーションガス等の有鉛ガスが規制されるため、エンジンをハイオク仕様にしなければならず、テスト走行などに追われた。しかし、来シーズン出場するレースが限られてしまうため(全日本とエリア戦)、どうしようかと考える日々が続いたのである。(あまりにもレベルが高すぎるので・・・笑)

1996年エビス選手権N-GP250クラス。

1996年エビス選手権N-GP125クラス。中山号(左)とナベ号(右)

1997年

やはり俺はサーキットにいたが、レースには出場していなかった。ヨネちゃんのピットクルーとして参加していたのだが、ここ2年くらいでめっきりレース人口も減り、予選決勝とワンデーレースとなってきていた。そいえばこの年、ヨネちゃんはハーフウェットコンディションの中スリックタイヤを履いて優勝し、タイヤサービスの人もびっくり、なんてことがあった(笑)。俺はシーズン途中、古くなったマイTZに鞭を打つべくラム圧化を計画。SPOT FRPにて製作されたラム圧ダクトとラム圧ボックスを装着。その際、フレームなどに手を加えなければならず、トップフューエルレーシングの熊木社長とジローさんにはアルゴン溶接等で大変お世話になった(実はそれだけではないが)。ナベは会社を辞めることになり、しばらくはレース活動は中止。中山さんは全日本に出場したが予選敗退していた。俺も当時勤めていた会社を辞めて九州へ行こうと決意していたため、最後にみんなで走ろうということになり、最終戦に出場する運びとなったのである。その1戦のために3ヶ月前から練習走行など準備をすすめ、そのあわただしさに数年前に戻ったような気がしていた。最終戦はどこのサーキットよりも遅い最終戦(と思う)であったエリア戦併催のエビス選手権だった。(だったけな・・・とにかく国内と国際が混走だった)。たまたま、表彰台の横に上がっていた俺は、九州に行くことを告げみんなにお礼を言ったのだった。

暗くなりかけたパドックで、今まで知り合えた仲間たちと健闘をたたえあった。そして魂S.Pのみんなで記念撮影をした。ヨネちゃんは翌年国際ライセンスへ昇格。

そして・・・・・・・・・その後・・・・・、どこのサーキットにも、ババ色ピンクのマシンは姿を現すことはなかったのである。

1997年エリア戦GP250クラス決勝グリッド。

1997年N-GP250クラス決勝グリッド(エリア戦併催混走)
このときは最後尾だったのかな。

1997年エビス選手権第1戦(?)N-GP250クラスでヨネちゃん優勝。

1997年ラム圧化された創設者のTZ250。

1997年エリア戦決勝PPグリッド。
ライダーナベとピットクルーのあおちゃん。

こちらは中山さん。フロントロー。ピットクルーは西ヤンとみずっち。

1997年12月 魂SUPER POTENTIALは地方選手権参戦チームとしての最後のレースを終えた。それぞれの新しい人生がスタートした瞬間だった。

Good luck !

Special Thanks To

     

     

     

  

Auto Shop Mizushima  YONEZO   CUSTOM PAINT ペガサス   TOP FUEL RACING   噂の大日本工芸   BRIDGESTONE   FERODO

YSP春日部中央   SPOT FRP   Raiders Shop CABIN   M-FACTORY  amuse motor sports   KUSHITANI川口店   サイクルショップ乳井

HIRYU   WAKOS SAITAMA & SAITAMAMINAMI   石川自動車整備工場   SPEED SHOP SEVEN   COSMO LAND   北海道ファーム佐藤 

 筑波サーキット   エビスサーキット   北海道スピードパーク   スポーツランドSUGO   西仙台ハイランド   FISCO 富士スピードウェイ

 秋ヶ瀬サーキット   那須エクスプローラーサーキット   赤城カートランド   桶川スポーツランド   ベンドリアー食堂   CLUB1.2 FK大平組

      RACING南平台千尋隊   TEAM AZTEC   KOME WORLD   MFJ日本モーターサイクルスポーツ協会   Mizushima-syatyo(AS Mizushima)

Yokota-syatyo(YONEZO)   Tanaka-syatyo(PEGASUS AUTO)   Kumaki-syatyo(TOP FUEL RACING)   Jiro-san(TOP FUEL RACING)

Takai-syatyo(Dainippon kougei)   Hikita-syatyo(HIRYU)   Shibuta-syatyo(amuse motor sports)   Mihota-syatyo(M-FACORY)

Nakamura-syatyo(YSP Kasukabe Chuo)   Asami-syatyo(Riders Shop CABIN)   Kagotani-san(SPEED SHOP SEVEN)

Ota-san(SPOT FRP)   Tarbo-san(Cycle Shop Chichii)   Tomo-san(Cycle Shop Chichii)   Tagishi-san(IWANAI Motocross Club)

Mikami-san(IWANAI Motocross Club)   Hideji-san(IWANAI Motocross Club)   Masuda-san(TEAM MIND)   Ohira-san(CLUB1.2 FK)

Chiba-san(Bike Shop ELEVEN)   Ito-san(CLUB1.2FK)   "ムッチィ”Muto-san(CLUB1.2FK)   Naoki-san(CLUB1.2FK)

Shimizu-san(CLUB1.2FK)   Chihiro-taicyo(RACING NANPEIDAI Chihiro-tai)   Aso-kun & Chiyoko-san(RACING NANPEIDAI Chihiro-tai)

Takahashi-kun(RACING NANPEIDAI Chihiro-tai)   Sugasawa-san(RACING NANPEIDAI Chihiro-tai)   Nishi-kun(TEAM AZTEC)

Yoshizawa-san(KAWAGUCHI BANKIN)   Tatsuya-kun(KAWAGUCHI BANKIN)   Kashima-syotyo(WAKOS SAITAMA)

Toguchi-syotyo(WAKOS SAITAMA MINAMI)   Kumakubo-Shihainin(EBISU CIRCUIT)   Koichi Suzuki   "MINIRA" Kimura-kun

Kasuya-san   Wada-kun   Ueno-kun   Minai-kun   Takano-kun   MAX Coffee   Dr PEPPER   SUNNY SIDE BURGER

Gary-kun   Bongy-kun   Homy-kun   Homiko-san   Cabi-chan   Midnight Route 4   Earthshaker   LOUDNESS   Mari Hamada

BOWWOW   ANTHEM   44MAGNUM   JUDAS PRIEST   Randy Rhoads & Hard Rock Music

   with our famiry and all our friends!

     

当時の会社名、団体名等で記載してありますので残念ながら現在なくなっている会社・団体もあります。

私達のような実績の無いプライベートチームが充実したレース活動が出来たのも皆様方のおかげです。

20年以上たった今でも本当に感謝しております。ありがとうございました。

魂SUPER POTENTIAL チーム員一同

   

                                                            

SUPER PRIVATE LOCAL ROAD RACE TEAM 【魂 SUPER POTENTIAL 】 since 1983

inserted by FC2 system